私は天才?(社会人編) [コラム]

 前回の続きです。

 右手に爆弾(腱鞘炎)を抱えてはいたものの楽天家の私は大学を卒業をしたらプロの演奏家になりたいと(漠然と)考えていました。しかし、この時点でもまだ自分の音楽における夢が見つかっていません。結局、色々な人を巻き込んで色々な偶然が重なり、気が付いて見ると私は横浜市の中学校の音楽教諭になっていました。他人事の様に言っていますが、本当にそんな感じでした。

 ここでは生徒達に多くの事を教えられます。私が勤めた頃全国の中学校はとても荒れていました。私が勤めた中学校も例外では無く、全国版に載るような事件を起こした学校です。私は吹奏楽部の顧問を希望したのですが、「破損の危険があるので高価な楽器が必要な吹奏楽部は作れない。」と言う理由で吹奏楽部そのものがありません。そこで、学校に働きかけて吹奏楽部を作る事から始めました。校長の許可をもらい、職員会議でもOKが出たのですが、急な話だったので予算の工面が出来ません。吹奏楽部が出来たのに楽器が買えないのです。しかし、沢山の生徒が入部して来ました。

 吹奏楽部と言っても楽器が無いのですから、練習が出来ません。仕方なくトレーニングをする事にします。腹筋、背筋等の筋肉のトレーニング、手拍子、足拍子等を使ったリズム・トレーニング、歌を歌ったりして音感トレーニング(ソルフェージュ)、そして、様々なジャンルの音楽家、演奏家、オーケストラやバンドの演奏をビデオで見せ、それぞれに付いて音楽的な説明をするようにしたのです。このような状態は数カ月続きました。毎日同じ事をしていては生徒も飽きてしまいます。また、トレーニングも適当にする訳には行きません。私も色々な人に聞いたり、本を読んで勉強したり、練習を工夫したりしなければなりませんでした。ここで勉強した事が今とても役に立っているのです。

 楽器も無いのに毎日練習している生徒を見て学校側もPTAも(条件付きで)特別に予算を出してくれました。私が高校生の頃からお世話になっているセントラル楽器の社長の協力のお陰で何とか全員に行き渡るだけの楽器は揃いましたが、数を多くする為に高価な楽器(低音楽器や大形の打楽器類)は揃えられません。学校側やPTAから出された条件は「出来るだけ早い時期に全校生徒の前で演奏する事。」でした。それまでの私の常識では不可能です。しかし、生徒達は私が思いもよらないアイデアで、不可能を可能にして行きます。あっと言う間に校歌の伴奏ができる様になってしまいました。彼等は、それまでのトレーニングや知識をきちんと消化していたのです。彼等はまだまだ不十分な技術しか持っていないにもかかわらず、しっかりと音楽創りが出来るのです。勿論、大人から見ればまだまだ幼稚な部分、不十分な部分は沢山あります。しかし、彼等なりの音楽創りが出来るのです。

 教員になって2年程経った頃から腱鞘炎を患った右手の調子が良く有りません。病院で診察してもらうと腱鞘炎どころか軽い右半身麻痺になっている事が解りました。3つの大学病院で検査をしましたが、同じ診断でです。楽器どころか日常生活そのものが不安になってきました。そんな時、あの吉岡先輩が仕事中にアキレス腱を切ってくれた(?)のです。休みに、吉岡さんの入院している片山記念病院にお見舞いに行きました。吉岡さんは入院患者とは思えない程元気です。私の顔を見るなり「良い所に来たな。」「退屈してたんだお茶飲みに行こう。」と言い出し外出許可をもらいに行きました。吉岡さんの元気さは半端ではありません。駐車場で待っていると「これ持って歩かないと看護婦がうるさいんだよな~。」と松葉杖を肩に担いで現れました。まるで亀有派出所の両津さんの様な人です。そこで話をしている時に「ここの院長良いぞ。」「お前も見てもらったらどうだ?」「どうせダメ元だろ。」と言うのです。

 3つの大学病院で同じ結果だったので今更結果が変わるとは思えません。吉岡さんの言う通り「ダメで元々」と言う気持ちで見てもらいました。やはり結果は同じです。ただ、検査結果をみて「あ~、こりゃダメだ。」と院長が明るく言ったのには驚きました。その明るさにキョトンとしていた私に院長は「君、何かやりたい事は無いのか?」と聞くのです。「もしかすると相当悪いのかな?」と不安になりながら、「出来ればまたクラリネットが吹きたい・・・です。」と元気なく答えると「医者が治せるのは病気の3割程度だ。」「後の7割は本人の『治りたい』と言う気持ちが必要なんだ。」「それにはやりたいことをするのが一番。」「クラリネットを吹きなさい。」と言うのです。私が「でも、どこの病院でも『これ以上腕に負担をかけてはダメだ。』と言われました。」と答えると。「確かに、悪い所を無理に使えば病気は悪くなる。」「しかし、人間の体は上手く出来ているんだ。」「悪い所があってもそれを補う機能がちゃんと備わっているんだ。」「そこを上手く使ってあげれば、またクラリネットが吹けるはずだ。」と言ったのです。学校で校長とその件について話した結果、2ヶ月間療休を取り、治療とリハビリをする事になりました。プラス志向の院長と話をし、トレーニング・ルームでトレーニングをした後、元気な入院患者の吉岡さんのお見舞いに行くと言う日々が続く間に、私も元気な病人になって行きました。

 私が休んでいる間にも生徒達はどんどん不可能を可能にして行きます。それにつられる様に私も(治りはしないものの)悪かった体調が見る見る回復して行きます。「またクラリネットが吹けるかもしれない。」と確信が持てる様になってきました。そんな時、その年の鑑賞会でオーケストラを呼ぶと言う事が職員会議で決まったのです。担当は私ですが予算に限りがあり中々思う様に行きません。それで小笠原先生にその件で相談した所すぐに知り合いに連絡を取って、鑑賞会の為のオーケストラを作る事になりました。連絡が来たメンバーとプログラムを見てビックリ。クラリネット・パートは私と小笠原先生です。しかも私が指揮を振りながらモーツァルトのコンチェルトを吹くと言うおまけまで付いていました。私が「腕の調子も良く無いし、1年以上も楽器を吹いていないので無理です。」と電話をすると「君ならできるはずだよ。」「やってみなさい。」と珍しく強い口調で言われました。慌ててカビの生えたクラリネットを掃除し、練習開始です。すると動かない指でも工夫すれば吹ける様になってきます。生徒達と音楽創りをしている間に私自身も少しは柔軟な考え方ができる様になったようですし、小笠原先生に教えてもらった事が生徒達の協力で消化出来た様です。そして、大学時代には良く解らなかった事が少しずつ見えて来るのです。また、大学時代楽器が吹けなかった時に指揮とアレンジを勉強したお陰で、スコアも何とか読めましたし、指揮も迷惑をかけない程度には振る事が出来ました。

 本番当日、私がコンチェルトの出番の前に舞台そでで準備していると小笠原先生が私が使う譜面台を片付けてしまいました。「暗譜で吹け。」と言われるのかと思い「完全には暗譜出来ていないんですけれども。」と言うと。「君は何もない舞台に一人で堂々と入って行きなさい。」「譜面台は僕が後から持って行ってあげるから。」と言うのです。舞台にはすでにオーケストラのメンバーが座っています。その前には少し広い空間が作られ今は何も置かれていません。そこに一人で堂々と入って行けというのです。言う通りにすると何とも良い気分になって来ます。緊張や不安等どこかに吹っ飛んでしまいました。暫くするとニコニコ顔の小笠原先生が譜面台を持って入ってきます。ここで私の何かが変わった様な気がします。ステージの上がとても居心地が良かった(ただの目立ちたがり屋)のです。「この世界で働きたい。」思い込みの激しい私は教員を辞める事を決めました。意外だったのは、自分の都合で吹奏楽部を作り、自分の都合で教員を辞める事を決めた私を一番理解したのは吹奏楽部の生徒達でした。ここで始めて夢らしい物が私の中に生まれて来ました。「こいつら(生徒達)の自慢の先生になりたい。」と言うのがその夢です。生徒達が「僕(私)あの先生に習ったんだよ。」と人に自慢出来るような事をしたいと考える様になったのです。残念ながらこれはまだ実現出来ていませんが・・・。

 教員を辞めてもすぐにはプロにはなれません。それなりの技術と音楽性が必要です。もう一度勉強しなおす場所として私はアメリカを選びました。沢山の国の人や文化が集まり沢山の音楽が生み出されているアメリカを自分の目で見たかったのです。私はアメリカ留学の準備の為に、まず語学留学する事にします。そこで、また沢山の人に教えられ、助けられる事になります。これは(独立編)でお話しましょう。
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