レトルト・ミュージック [コラム]

 「レトルト食品」と言うと以前は、安くて便利だけれども、味や高級感そして栄養などはあまり期待できない食品でした。ところが、最近のレトルト食品は一概にはそうとも言えなくなってきています。中には綺麗に盛り付けて食卓に出されたら、料理の得意な人が、材料から調理した物なのか、レトルト食品なのか素人には区別が付かないような物まであります。

 ところで、食卓に出した状態があまり変わらないという理由で、レトルト食品の選び方や盛り付けの仕方だけを教える料理学校があったとしたら皆さんはどう思いますか?少なくとも、そこで料理の腕を上げる事は難しいと私は思います。しかし、音楽の世界ではこのようなレッスンが少なく無いのです。つまり、上手くなったように見えて、実は殆ど上手くなっていないと言う事があるのです。逆に言うと、技術の向上は最低限でも、上手そうに聴かせる方法が存在すると言う事なのです。私はそのような音楽を勝手に「レトルト・ミュージック」と名付けました。

 「本番が近いにも関わらず曲が仕上がらない。」とか、「パーティーで急に演奏を頼まれた。」等特殊な状態ではレトルト・ミュージックは大変有効ですが、「上手くなりたい。」とか「技術を向上させたい。」と言う方々は極力避けなければならない演奏方法です。今回は、私が気になるレトルト・ミュージックについてお話したいと思います。

 こんな事を言うと何人かの同業者に叱られるかもしれませんが、一番気になるのが「スイカ割りのようなレッスン」です。「ここは小さく。」「ここはアクセントで。」「ここは低く。」等と具体的だけれども楽譜が記号だらけになってしまう程の細かな指示から「ここは釘の頭のように。」「ここはビロードのような音で。」等々何だか良く分からない指示まで方法は色々とあるようですが、生徒さんが演奏する曲を頭から終わりまで、事細かに指示を出してレッスンして行くと言う物です。これは一見親切で丁寧なレッスンに見えます。この指示の出し方が、私にはスイカ割りをしている時に、周りの人たちが出している指示と同じに見えてしまうのです。本人は良く分かっていなくても、周りの人の指示を正確に聞き取り、その通りに体を動かすトレーニングをすれば、スイカが割れる。そして、スイカが割れた事を喜ぶ。これはゲームだからこれで楽しいのですが、技術の向上を目指している人にとっては如何でしょうか?私は大きな落とし穴があるような気がします。

 例えば、チューニングです。ある中学校の吹奏楽部を教えに行った時の話です。余りにも音程が悪いので、先生に尋ねたところ、「そうなんですよ。」「音程が悪いので全員にチューナーを買わせて、チューニングにも毎日1時間近くかけているのに一向に音程が良くならないんですよ。」「それで先生に来ていただきました。」との答えがかえってきました。生徒の楽譜を覗くと何やらびっしり書き込まれています。その中に矢印がやたら多いので(答えの想像は付いていましたが)聞いてみたところ、「これは音程です。」との返事がかえってきました。上向きの矢印は音を高く、下向きの矢印は音を低く取る記号だそうです。「音程を良くしたい。」「生徒に良い演奏をさせたい。」という先生の気持ちは良く分かりますが、これは大切な事を忘れてしまっています。それは「音」です。

 チューナーと言う機械を見て音を合わせ、先生の顔色を見て音を合わせ、譜面に書かれた記号を見て音程を調節する事で、生徒達は「音を聴く。」という音楽にとって最も単純で最も大切な事を忘れてしまったのです。だからいくら練習しても音程が良くならなかったのです。意外に思う方もいるかも知れませんが、チューナーは演奏する本人が自分の耳で音を判断できるようになって初めて役に立つのです。そもそも、チューナーは物理的に音を合わせることは出来ますが、音楽的に音を合わせる事はできないのです。そして、矢印は何の役にも立ちません。楽器の音程は絶えず変化するのです。今低くても10分後は高いかもしれません。今日高くても明日は低いかもしれません。たった今合っていたのに、リードを変えた途端合わなくなる事だってあるのです。もし、矢印が役に立つとしても、どれくらい高く、どれくらい低く演奏するのか表記出来なければ意味がありません。「それくらいは自分で判断するのです。」と言うかもしれませんが、それが自分で判断出来る人であれば初めから矢印など必要無いのです。そして、柔軟に音程を調節する技術も必要になってきます。またまた、脱線してしまいそうですので話を戻しましょう。

 つまり「スイカ割りのようなレッスン」で私が問題だと思う点は、教える側も教わる側も「音を聴く」「音で表現する」と言う音楽の基本となる事をを忘れ易いということなのです。「楽譜が無ければ何も吹けない。」「記号が書いて無ければ曲想が付けられない。」「誰かに指示を出してもらわなければ何も練習出来ない。」と言うのでは音楽の楽しさ、演奏する楽しさを殆ど味わう事ができないと思います。「スイカ割りのようなレッスン」で生み出される音楽を「塗り絵の様な音楽」「的当てゲームの様な音楽」と私は表現する事もあります。「塗り絵の様な音楽」「的当てゲームのような音楽」とは演奏している本人ではなく、教えている先生の個性ばかりが目立つ演奏、楽譜に書かれた事をただ機械的に演奏し、出された指示を守る事ばかりに気を取られて、音楽を忘れてしまっている演奏の事です。

 塗り絵ならば、誰でもそこそこの絵は描けるでしょう。簡単に自分が書いた絵を自慢したいならばそれも一つの方法です。しかし、本当に技術を身に付け、絵を描く楽しみを知りたいならば、下手でも良いから自分で絵を描いた方が良いのではないでしょうか?的当てゲームで勝敗ばかり気にして神経質にボールを投げるのも良いですが、ゲーム自体を楽しむのなら的から外れても構わないから、思いきりしかも気持ちよくボールを投げてみるのも必要なのではないでしょうか?これも、結果的には技術の向上につながるはずです。

 もし早く上手になりたいと思うのなら、上手く演奏できる曲ばかり演奏したり、上手く聴かせる工夫ばかりするのではなく、下手でも格好悪くても良いから、自分で音楽を作って見ては如何かでしょうか?そして、音楽を言葉(音楽記号等)や数値(周波数や時間等)に置き換えて理解しようとするのではなく、音そのものを理解しようとすべきなのではないでしょうか?そうすると、楽器を演奏する全ての人が皆さんの先生になるはずです。

 手軽に美味しい物を作りたいのならば、レトルト食品を利用するのも一つの方法でしょう。しかし、料理が上手くなりたいと思うのであれば、手間をかけ、失敗を繰り返しながら練習するしかありません。美味しい物を食べて味覚を向上させる必要もあるでしょうし、美味しかった料理を真似して作ってみるのも良いかもしれません。そして、「美味しい料理を作りたい。」と言う気持ちを忘れない事です。

 これを音楽に置き換えてみると、手軽に良い演奏をしたいのならば、レトルト・ミュージックを利用するのも一つの方法でしょう。しかし、楽器が上手くなりたいと思うのであれば、手間をかけ、失敗を繰り返しながら練習するしかありません。良い音楽を聴いて聴覚を向上をさせる必要もあるでしょうし、好きなプレーヤーの演奏を真似してみるのも良いかもしれません。そして、「良い演奏をしたい。」と言う気持ちを忘れない事です。と言う事になります。
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